2021年大河ドラマ「青天を衝け」の舞台情報をまとめます。
こちらでは、その後実業家への転身を描いたエピソードの舞台(史跡・ロケ地)を紹介していきます。
このページでは、第33回「論語と算盤」からの紹介です。
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- 第33回「論語と算盤」
- 第34回「栄一と伝説の商人」
- 第35回「栄一、もてなす」
- 第36回「栄一と千代」
- 第37回「栄一、あがく」
- 第38回「栄一の嫡男」
- 第39回「栄一と戦争」
- 第40回「栄一、海を越えて」
- 第41回 「青春はつづく」
第33回「論語と算盤」
#33-1 五代友厚と大久保利通が囲碁仲間(史跡:旧五代友厚邸/現:大阪科学技術センター)
二人が囲碁をしてシーンは、大阪の五代邸で行っていたそうです。今のその面影もなく、大阪科学技術センターという教育施設が建っています。斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催が行われました。(明治8年(1875年)2月11日)
大阪中心部には、五代友厚の功績をたたえて多くの史跡が残されております。
①大阪商工法議所跡(現:三菱UFJ銀行大阪営業部)
②大阪証券取引所の五代像
③大阪会議開催記念モニメント(大阪府大阪市中央区北浜)
#33-2 渋沢商店で蚕卵紙の相場問題で作戦会議をする栄一(史跡:横浜市中区本町三丁目付近)
渋沢喜作が明治8年頃より、横浜で生糸売込問屋をやっていた、渋沢商店は、みなとみらい線馬車道駅付近の本町三丁目交差点付近にあった方です。
今では、横浜銀行協会やみずほ銀行横浜支店などがある場所になります。
#33-3 価格を元に戻すため買い上げた蚕卵紙を燃やす(史跡:横浜公園付近)
横浜スタジアムがある横浜公園付近で国費で買い上げた蚕卵紙を燃やしました。
#33-4 大久保卿暗殺の一報を知る岩崎弥太郎(史跡:三菱蒸汽船会社/現:澁澤シティプレイス/茅場町)
地下鉄茅場町駅近くに三菱蒸汽船会社本社があったそうです。現在の澁澤シティプレイスというオフィスビル(花王本社)が建っています。この澁澤シティプレイスを運営する会社が、栄一が唯一、自ら経営し続けた澁澤倉庫株式会社という会社が運営しているのは何か縁なんでしょうか?
澁澤倉庫株式会社 東京都江東区。倉庫業の他、流通加工や国際一貫輸送など総合物流企業。
#33-5 大久保卿暗殺/紀尾井坂の変(史跡:紀尾井坂/清水谷公園/大久保公衰悼碑)
明治11年5月14日に明治天皇に謁見するために赤坂仮皇居に出向く道中、現参議院清水谷議員宿舎付近で暗殺犯6人より襲撃を受けます。
襲撃を受けた近くにある清水谷公園には、紀尾井坂の変の石碑があります。
紀尾井坂の変とも言われておりますが、実際の紀尾井坂は、少し先にあります。この先には、目的地である赤坂御用地があります。
#33-6 西郷隆盛死す(史跡:鹿児島市城山/西郷隆盛終焉の地)
西郷隆盛終焉の地である鹿児島市内の城山公園には、関係する史跡があります。ここは、明治政府軍が城山総攻め日に隠れていた、洞窟として知られている西郷隆盛洞窟です。中二病でも恋がしたい戀の修学旅行カットで登場した場所でもあります。(写真使い回し)
第34回「栄一と伝説の商人」
#34-1 商法会議所を立ち上げる栄一(史跡:現「銀座6丁目SQUARE」)
明治11年に、条約交渉に望む伊藤博文ら政府から要請で栄一達が中心になって東京商法会議所が設置さて、初代会頭になりました。現在の東京商工会議所の前者となった組織です。現在の銀座6丁目SQUAREがある場所にあったそうです。
現在の東京商工会議所は、東京都千代田区丸の内3-2-2(丸の内二重橋ビル)にあります。
エントランスには渋沢栄一の銅像がありました。
青天を衝け!とのコラボでパネル展示が期間限定でやってました。西の五代、東の栄一とも言われているツートップのパネルが出迎え来れましたり
#34-2 ③渋沢栄一邸(史跡:渋澤シティプレイス永代/江東区永代)
明治11年より栄一が住んでいたのが、澁澤倉庫株式会社が運営するオフィスビル、渋澤シティプレイス永代にあったそうです。。これ以降は、暫くはここに居住し、別邸として現烏山公園の屋敷を持っていたそうです。
#34-3 養育院を訪ねる渋沢栄一夫妻(史跡:現東京都立健康長寿医療センター/板橋区)
栄一が支援し、自ら経営に乗り出す事になる、養育院は、板橋区にある東京都健康長寿医療センターです。開設された明治5年の時点には、本郷加賀藩邸内(現上野東大内)に設立され、翌年には、上野護国院を東京養育院として運営を始めたそうです。栄一の生涯の中で最後まで経営に関わったものでもあります。
#34-4 栄一VS岩崎弥太郎(史跡:向島)
岩崎弥太郎が呼び出された栄一が向かった先が、隅田川沿いにある向島という地区だったそうです。詳細の場所は不明ですが、墨田区立隅田公園の牛嶋神社の写真を貼っておきます。
第35回「栄一、もてなす」
#35-1 グラント将軍来日(史跡:横浜港 ロケ地:日本郵船氷川丸)
グランド将軍来日の船のシーンは横浜山下町にある日本郵船「氷川丸」で行われたようです。入口付近よりカットを合わせてみました。
#35-2 グラント将軍の歓迎夜会(史跡:虎ノ門工部大学校/現文部科学省庁舎付近)
歓迎夜会の会場は、現文部科学省の庁舎が建っている場所にあった、虎ノ門工部大学校で行われたそうです。
#35-3 渋沢栄一邸④で持て成す(北区烏山公園・旧渋沢庭園)
4つ目の渋沢栄一邸であり、現存する史跡でもある烏山公園の渋沢邸です。当初は別荘として使用していたそうです。グランド将軍をもてなすために急遽工事を終わらせたそうです。
その後、明治天皇も参加されて歓迎会の会場は、今も残る名店である上野精養軒です。
第36回「栄一と千代」
伊藤博文が大隈重信の家を訪ねて辞任を迫る(史跡:②大隈重信邸/現千代田区役所)
この頃の、大隈重信邸は、今の千代田区役所付近にあったそうです。伊藤博文が訪ねて印籠を渡した明治十四年の政変のクライマックスです。
#36-2 伊藤博文初代内閣総理大臣へ(史跡:仮皇居/赤坂御用地内)
明治18年12月22日太政官達69号と内閣職権に伴い伊藤博文初代内閣総理大臣になりました。この時代、仮皇居が置かれており、今の赤坂御用地内で式典が行われたと思われます。
第37回「栄一、あがく」
#37-1 栄一が徳川慶喜を訪ね、千代の葬儀香典のお礼を言う(史跡:徳川慶喜邸②/静岡市西草深ポケットパーク)
静岡の浅間神社の近くには、徳川慶喜が謹慎を解かれて明治以降住んでいた屋敷跡があります。この浅間神社の隣の広大な土地がお屋敷だったそうです。
(謹慎解除後、浮月楼で住んだ後に移転した場所)
西草深公園内にここが慶喜の屋敷であったいう看板がありました。
#37-2 共同運輸会社設立(史跡:共同運輸会社本店/東成ビルディング)
三菱に対抗して栄一達が設立した共同運輸会社本店は、三菱本店があった茅場町と川を挟んで反対側の箱崎町にありました。両者一歩も引かないダンピング合戦を2年半も繰り広げました。
#37-3 岩崎弥太郎病状悪化により死亡(史跡:岩崎弥太郎邸/お茶ノ水ソラシティ)
三菱と共同運輸とのダンピング合戦が白熱する中、岩崎弥太郎が病に倒れました。当時、岩崎弥太郎の邸宅があったのが、お茶の水にある「お茶の水ソラシティ」です。記念碑と岩崎家の蔵を再現したものが残されています。
第38回「栄一の嫡男」
#38-1 東京開市三百年祭(史跡:上野公園上野東照宮)
徳川家康を祀る全国各地の東照宮の中でも、日光、上野、久能山東照宮は日本の三大東照宮と言われています。江戸幕府が開かれて(家康が江戸城入城より)300年を迎える明治22年(1889年)に上野東照宮で東京市開市三百年祭が旧幕府メンバーにより開催されました。懐かしいメンツも揃い、「徳川万歳」と皆んなが叫ぶシーンは圧巻でした。
#38-2 栄一襲撃を受ける(史跡:江戸橋南交差点/日本橋郵便局前)
明治25年(1892年)に家を出た直後に暴漢に襲撃を受けました。東京市の水道管の敷設工事について国産で進める各々方に向けて、衛生面を考慮して、海外産の水道管を安全性を唱えたところ暴漢に襲撃されました。
#38-3 栄一襲撃後に手当てを受ける(史跡:日本橋三越)
その後、栄一は、日本橋三越本店で手当を受けました。栄一は、命が取られなかった事から、これが脅しである事を理解しました。
#38-4 栄一が広島大本営に出向く(史跡:広島城内)
第38回「栄一の嫡男」より、明治27年(1894年)11月13日に東京商法会議所及び関東銀行会総代として天皇が陣を構える広島大本営に赴き、明治天皇に謁見したシーンです。
#38-5 徳川慶喜東京に戻る(徳川慶喜邸③/巣鴨・明治31年~)
明治31年(1898年)に徳川慶喜が東京市に戻って来ました。幕末より30年ぶりの出来でした。最後まで、東京市に戻る事を拒んでいた慶喜でしたが、自身が体調を心配した側近達提案で戻る事にしてそうです。
その邸宅は今のJR巣鴨駅前の広大の土地に建てられたそうです。栄一は嫡男である渋沢篤二を連れて訪問しました。
第39回「栄一と戦争」
#39-1 徳川慶喜邸④(史跡:国際仏教学大学院大学・明治34年~)
明治34年(1901年)になると鉄道敷設で騒音問題が発生したため巣鴨から春日の今の国際仏教学大学院大学に引越しました。ここが徳川慶喜終焉の地になります。
#39-1 日露戦争の講和に向かう小村寿太郎外務大臣(史跡:新橋駅)
明治38年 (1905)9月10日に小村寿太郎外務大臣が日露戦争の講和処理でロシア側から賠償金が取れなかった事が世間から反感を買い、新橋駅で暴徒化した市民から暴行を受けました。場所は、旧新橋駅舎で、当時の建物が残っています。
第40回「栄一、海を越えて」
#40-1 伊藤博文を訪ねる栄一(史跡:旧滄浪閣/伊藤博文邸)
実業界を引退した栄一が民間外交で渡米する前に、伊藤博文を訪ねました。大磯には著名人の別荘が点在しており、伊藤博文もそこに別荘を構えました。近所には大隈重信の別荘もあり、一帯は、明治大磯記念邸園として、当時の歴史を伝える史跡となっています。
#40-2 渋沢喜作邸・終焉の地(史跡:八芳園)
渋沢喜作が徳川慶喜に30年ぶりに再開した時に、慶喜より「白金台に大きな家を構えたのか?」と聞かれたと思いますが、その邸宅が今の八芳園にあったそうです。幕末では島津家の下屋敷として使われて、その後渋沢喜作に渡ったそうです。
現在は、株式会社「八芳園」として、料亭や結婚式場として使われております。園内には、入らなかったため入り口を写真に納めました。
#40-3 渋沢篤二邸①(史跡:共用会議所・三田共用会議所)
渋沢栄一の嫡男である、渋沢篤二の自宅があった場所です。
#40-3 敬三に栄一が頭を下げてる(史跡:白金渋沢篤二②/松岡美術館)
栄一により、廃嫡となったため、息子である敬三は白金台に引っ越したそうです。近所には、渋沢喜作の家もあったそうです。
#40-4 井上馨終焉の地(史跡:静岡市清水区長者荘)
井上馨の別荘は、長者莊跡は、静岡県静岡市清水区の静岡市埋蔵文化財センターにあったそうです。作中では、その最期が描かれてましたが、史跡はこちらだったそうです。
第41回 「青春はつづく」
#41-1 大隈重信死去(史跡:早稲田大隈邸/早稲田大学大隈庭園)
早稲田というメロンを作っていたとされる晩年の大隈重信邸ですが、現在は自ら創設した早稲田大学の敷地にある庭園として公開されています。(日曜日休園日)
#41-2 原首相暗殺(史跡:東京駅丸の内口/原首相暗殺現場)
栄一が再度渡米した時に、その事件は起きてしまいます。大正10年(1921年)11月4日の東京駅構内だったそうです。事件現場はホームと言うことですが、丸の内南口改札口付近の券売機がある場所に史跡が残っています。
#41-3 関東大震災に被災する栄一(史跡:渋沢栄一兜町事務所/海運橋付近*③渋沢栄一邸)
第一国立銀行の隣で渋沢栄一のオフィスがあったそうです。都内に引っ越して来て3回目の物件で、大正12年(1923年)9月3日の関東大震災の時、栄一はここで被災して、烏山の家まで徒歩で戻ったそうです。この当時、伝記をまとめていた栄一はこのオフィスで資料などを置いていましたが、地震の影響で消失したそうです。
#41-4 渋沢栄一終焉の地(史跡:北区烏山公園*⑤渋沢栄一邸)
渋沢栄一の終焉の地は、北区烏山公園の旧渋沢邸園にあった邸宅でした。当時の邸宅は戦争によって焼けてしまいましたが、青淵文庫と晩香廬が残されております。
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