いにしえのまち

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【聖地巡礼】2021年大河ドラマ「青天を衝け」@静岡・戊辰戦争(上野・飯能・箱館)・明治政府・銀行設立編(#25〜#32)

2021年大河ドラマ「青天を衝け」の舞台情報をまとめおります。
こちらでは、渋沢栄一が徳川昭武(民部公子)に随行したパリから帰還から、静岡藩(旧駿府藩)での徳川慶喜との再会、静岡藩での奉公、戊辰戦争(上野・飯能・箱館)、その後、明治政府出仕・退職後銀行設立などを描いたエピソードの舞台(史跡・ロケ地)を紹介していきます。
第25回「篤太夫、帰国する」から第32回「栄一、銀行を作る」のエピソードを取り上げます。

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第25回「篤太夫、帰国する」

#25-1 江戸に戻って来た慶喜が身を置いた場所(史跡:浜御殿/浜離宮恩賜庭園)

大阪城から逃げた徳川慶喜は、浜離宮恩賜庭園内にある「将軍お上がり場」にたどり着き、江戸城に向かったそうです。当時は、浜離殿と呼ばれており、徳川将軍家の別邸として使われていました。(入場料300円/休園日:年末年始)

#26-2 渋沢成一郎(喜作)が彰義隊を立ち上げる(史跡:浅草本願寺)

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渋沢成一郎が幕臣の勧められて彰義隊を創設するシーンで登場して浅草本願寺です。巨大な本堂が聳え立っていました。

#25-3 慶喜が水戸で謹慎となる(史跡:上野寛永寺)

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徳川慶喜が江戸城無血開城後に謹慎してしていたのが、徳川家ゆかりの上野寛永寺(根本中堂葵の間)です。謹慎の場所を水戸に移る際の彰義隊の面々の悔しさが伝わって来ました。

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また、德川歴代将軍御霊廟として歴代6名の将軍が眠っています。こちらについては、特別拝観で見る事ができるそうです。(慶喜が謹慎していた根本中堂、葵の間を含めて)

kaneiji.jp

#25-4 飯能戦争で振武軍の陣(史跡:飯能市能仁寺)

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振武軍の本陣が置かれていたのが天覧山の麓にある能仁寺です。ヤマノススメでも一瞬登場していつも横目にしていたお寺でした。しかし、飯能戦争が始めるとその日の内に、能仁寺は炎上、攻め込まれて、振武軍は壊滅しました。渋沢成一郎(喜作)は秩父方面に逃亡しました。その秩父山中の描写が作中で登場しております。

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#25-5 飯能戦争で振武軍の兵隊の宿営地(史跡:飯能市観音寺)

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こちらもヤマノススメでお馴染みな観音寺です。こちらは、振武軍の兵の宿舎が置かれていた場所ですが、新政府軍の攻撃を受けて炎上したそうです。

#25-6 渋沢平九郎が辿り着いた場所(史跡:飯能市顔振峠)
#25-7 渋沢平九郎自決の地(史跡:埼玉県入間郡越生町黒山)
#25-8 渋沢成一郎(喜作)逃亡して箱館戦争へ(史跡:五稜郭公園)

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飯能戦争で逃げ延びた喜作(成一郎)は、伊香保に逃げ延びて、密かに江戸(東京)に戻り、榎本武揚と共に、旧幕府の軍艦に乗り、蝦夷地(北海道函館)に向かいました。旧幕府軍は、新政府の直轄地であった函館を制圧し、蝦夷共和国を建国しました。

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現在の五稜郭には、函館奉行所の建物が再現されており、見学も可能です。(入館料500円)蝦夷共和国時代・函館戦争時は本陣が置かれておりました。

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五稜郭タワーの横には、箱館戦争で戦った旧幕府軍の慰霊碑がありました。

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新撰組副長の土方歳三の銅像や展示パネルを多く見かけるのが、五稜郭です。旧幕府軍として最後まで戦ったわけですので、功績は大きいと思います。

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五稜郭タワー内の休憩スペースには、旧幕府軍の大砲や旗が展示されておりました。また、ご当地キャラとして、土方歳三をモデルにしたヒジカタ君というゆるキャラグッズも売られていました。

第26回「篤太夫、再会する」

#26-1 駿河国(ロケ地:三保の松原)

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静岡市清水区の三保の松原から見た富士山でした。三保の松原の海岸線よりカットでした。この位置の富士山は綺麗です。

#26-1 静岡藩庁に出向く栄一(史跡:駿府城)

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パリから帰国した栄一が、民部公子様(徳川昭武)から慶喜に宛てた手紙を渡すため、謹慎の地である、静岡藩庁に出向くシーンです。中老大久保一翁と謁見しました。

#26-3 高松凌雲が敵味方関わらず負傷者を受け入れた病院(弥生町の箱館病院)

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栄一と共に、パリに行った高松凌雲(医者)が帰国後、箱館に渡り、戦争で負傷して兵を手当てするために、野戦病院(箱館病院)を設置しました。この病院の史跡などは残ってないのですが、函館山側の弥生町に有ったとさせています。敵味方問わず治療に当たってため新政府軍占領後も病院機能は維持させたそうです。

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弥生町から南方に少し歩いて行き、魚見坂を登って行くと、「国華山高龍寺」があります。こちらは、箱館病院の分院が設置されていました。

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また、新政府軍の総攻撃時に、中立が徹底されてなく、砲弾が打ち込まれて、多くの死傷者が出たとさせりおり、院内には慰霊碑と高松凌雲の看板設置されておりました。

→函館市電:函館どつく前下車

#26-4 謹慎している慶喜に再会する栄一(篤太夫)(史跡:静岡県静岡市宝台院)

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血洗島を後にした、栄一(篤太夫)が謹慎中の慶喜と面会した場所。慶喜が1年程度謹慎していた場所であり、東照大権現様(徳川家康)のゆかりの場所でもあります。また、家康の側室お愛の方の菩提寺です。

www.houdaiin.jp

第27回「篤太夫、駿府で励む」

#27-1 日本で最初の株式会社「商法会所」を設置(史跡:静岡市浮月楼)

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駿府藩(静岡藩)の元代官所で徳川慶喜も住んでいた時期もあったと言われている場所です。商法会所は廃藩置県にて、「常平倉」と改称・移転しました。その後、徳川慶喜は、謹慎解除後の 1869年 9 月から1888年まで静岡で暮らしました。

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浮月楼の庭は当時のままになっています。作中の紀行でも紹介されました。

www.ieyasu-net.com

 

#27-2 栄一(篤太夫)の妻、千代と娘うたが行った浅間神社の石段(史跡:駿河国総社 静岡浅間神社)

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駿府(静岡)に来た栄一の妻、千代と娘うたが行った静岡浅間神社です。作中では、うたが100段の石段を登ったという話を栄一に話していため、早速、言ってみました。

#27-3 土方歳三最期の地(史跡:函館市総合福祉センター「あいよる21」土方歳三最期の地碑)

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弁天砲台陥落を受けて加勢に行く土方歳三は途中、一本木関門付近で銃弾に打たれ死亡しました。

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終焉の地ということでひっそりではありますが、石地がありました。喜作(成一郎)に「生きて日の本の行く末を見届けろ」と言い残して銃弾に倒れたことになりました。

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五稜郭同様に土方歳三の看板もありました。ちょっとして観光スポットで、全国の土方ファンの聖地?ともされているそうです。

www.hakobura.jp

◯弁天砲台跡

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函館市電「函館どつく前」より海の方向に行くと、箱館戦争の最終局面である箱館総攻撃(明治2年5月12日)時の激戦地の一つであり、弁天台場跡があります。第27回「篤太夫、駿府で励む」で、渋沢喜作(成一郎)と土方歳三が最後の会話を交わした時に、兵隊が報告していました。土方歳三はこちらに加勢するために現場に急行しましたが、一本木関門付近で銃弾に倒れました。

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近くには、新撰組の最後の地の石碑がありました。

◯千代ヶ岱陣屋

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旧幕府軍の拠点の一つです。現在は、看板が設置されているだけで運動公園(大和田公園)になっています。ここで、土方歳三らが最後の晩餐をしたとも言われています。

www.hakobura.jp

第28回「篤太夫と八百万の神」

#28-1 大隈重信の屋敷に辞表を出しに行く栄一(史跡:築地新喜楽)

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大隈重信の自宅です。栄一が辞任するために乗り込んだり、政府出仕後は、国のために仲間を集めて語り合った場所もあります。大隈重信は、明治20年ぐらいまで築地に住んでいたそうです。

#28-2 東京から戻った栄一(史跡:静岡市教覚寺)

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慶喜が謹慎していた、宝台院の目と鼻の先に栄一の家があったそうです。実際歩いてみて、驚くほど近くて驚きました。

第29回「栄一、改正する」

#29-1 民部大蔵省で働く栄一(ロケ地:旧因州池田屋敷表門(黒門))

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作中冒頭シーンで登場した門は、上野公園にある、国立博物館敷地内にある、旧因州池田屋敷表門でした。OPの撮影協力で台東区と出ていたためヒントとなりました。実際には、寛永寺に行った時に前を通ったため記憶が残っていたのかも知らないです。

#29-2 民部大蔵省で働く栄一(史跡:皇居馬場先門付近忍藩上屋敷跡)

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民部大蔵省は、旧江戸城(皇居)の東側、二重橋駅付近にあった、忍藩上屋敷跡を使っていたそうです。明治政府の多くの役所が江戸幕府の旧屋敷を使用していたそうです。

#29-3 ①渋沢栄一邸(湯島中坂付近)

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静岡から引越してきた栄一が住居を構えたのは、湯島駅近くで湯島天満宮近くの湯島中坂付近だったそうです。

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湯島天満宮は、恩師平岡栄四郎ゆかりの地でもあり、何が関係があるのでしょうか?

#29-4 郵便発祥の地(史跡:日本橋郵便局)

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栄一や前島密が中心となり、明治3年に郵便事業を開始しました。現在の日本橋郵便局の場所に郵便役所が設置されたそうです。同郵便局には、記念碑と前島密の銅像が設置されております。

第30回「渋沢栄一の父」

#30-1 栄一の大阪出張(史跡:大阪造幣局 旧造幣寮)

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大阪にある造幣局に出張に行った栄一でしが、長期出張だったため、お世話をする女中(くに)と恋に落ち妾となり、その後、東京の渋沢家で正妻千代と同居したそうです。

第31回「栄一、最後の変身」

#31-1 ②渋沢栄一家に妾くにがやってくる(史跡:千代田区神田神保町一丁目)

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明治4年から明治6年迄の間住んでいたのが、神田小川町裏神保小路(現千代田区神田神保町一丁目)付近で神保町駅前辺りになります。妾の大内くにさんが渋沢家に押しかけた家でもあります。

#31-2 渋沢喜作(成一郎)が釈放(史跡:東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄)

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辰ノ口糾問所跡は、東京都千代田区丸の内1-4南西部にあったそうです。箱館戦争終了後、1ヶ月後に降伏・出頭して、辰ノ口糾問所に投獄されてました。栄一の尽力で釈放されて、大蔵省で働く事になりました。

#31-3 尾高惇忠が富岡製糸場の工場長になる(史跡&ロケ地:富岡製糸場)

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お馴染み、世界遺産である富岡製糸場です。オープニングで撮影協力として明記されており、ロケも行われたと思われます。

第32回「栄一、銀行を作る」

#32-1 第1国立銀行設立(史跡:みすほ銀行兜町支店付近・旧三井ハウス)

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大蔵省を辞めた栄一は、自身が立ち上げに関わった第1国立銀行(明治6年)の総監役に就任しました。三井組と小野組の共同出資による合本銀行でした。現在のみずほ銀行の前身であり、兜町支店が今でも存在しております。

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現在の兜町支店に当時の事を記す記念碑があります。

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日本の金融街と言われている兜町ですが、栄一が多くの発展に貢献しています。このような展示めありました。

#32-2 ③渋沢栄一邸(史跡:海運橋付近日証館)

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開運橋付近には、渋沢栄一邸もあり、第一国銀行の隣りに大きな邸宅を構えていたそうです。銀行家と言われていた事も納得です。

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栄一邸があった場所には、日証館と兜神社があります。

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